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十通の手紙 15     (最終回) [ゴールデンブログアワードノベル]


最終章 <1>

 その後のことを何から話そう。


 あの日僕は羽田のエスカレーターを降りながら、理沙と新しい生き方を始めるために、考えなけれ
ばならない多くのことを頭に思い浮かべていた。同じときに、自分の一段前で降りていく理沙が何を
考えていたのかなど、露ほども想像していなかった。

 ロビー階に降り立ち、僕が理沙に声をかけようとしたその時、理沙は振り返り僕を見つめた。
 そして、静かに、でもしっかりとした声で言った。

「ごめんなさい。これでお別れしましょう。私、あと三十分で出発する便で旅に出るの。
体調を治しながら、しばらくのんびりしようかと思って・・・。あなたともう一度会ったら、
出かけようと決めていたの。神様からのプレゼントをたくさん抱えて。」

 理沙は、始めからこれを最後にしようと決めていたのだ。

「そのお別れって・・・まさか、もう会わないってことなのか?」

 理沙は何かを探すような目でふと宙を見た後、つぶやいた。

「人生は旅のようなものなのよ。でも、きっと変わらないものもあるのかもしれないわね。
あなたのような人は、焦らずに考えたほうがいい。私のような人間は、すこし頭をカラにする時間も
必要かもしれない。」

 正直に言えばショックだった。僕と理沙は全く逆のことを考えていたのだから。しかし、理沙がどれ
だけ苦しんでこうしようと決めたのか。すべて原因は僕にあるのだ。

 でも、もう僕は、もう自分の気持ちを知っていた。
 二度と、狂った歯車を諦めたりしない。

 僕は、理沙の顔を正面から見て言った。

「じゃあ、今度は僕と約束してくれ。あと十年たって、もし僕が君を愛していて、君も僕を愛してくれて
いたら、一緒に暮らしてくれないか?」

 理沙は一瞬おどろいたようだった。

 そう、僕は変わった。理沙と会えなかった十年も、理沙と再会した短い時間も、ついさっき初めて
理沙を抱きしめたことも、すべてが僕を変えていく。もう、からっぽの僕ではない。理沙の居場所を自
分の中に抱きながらも、一人の人間として自分自身を一歩ずつ生きていく人間となっていく。

「そうね、約束しましょう。十年後、もしそうならば、あなたを探すわ。あなたも、私を探して。
きっと同じ気持ちなら、まためぐり合える。その時こそ、ずっと二人で生きて行きましょう。」

 理沙は僕とつないだ手をそっと離し、クレジットカードをバッグから取り出すとすばやくチェックイン機に通し、彼女をどこかへ連れて行くチケットを引き出した。

 そして理沙は、あのすてきな笑顔を残して搭乗口へと消えていった。

<2>

 家に帰ると、真理子が暗い部屋の中で電気もつけずにダイニングのイスに座っていた。
 僕が電気をつけると、真理子は泣いていた。
 そのダイニングテーブルの上には、理沙が送ってきた十通の手紙が乗せられていた。僕が、自分
の机の奥底に隠してきたものだ。
 どうやって、何故、この十通の手紙を真理子が見つけたのかはわからない。
 しかし、真理子のプライドは粉々に砕かれたのだ。もう、何を言っても多分信じてくれないだろうし、
今更修復する価値のある関係だと真理子自身も思うかどうか僕にはわからなかった。

 翌日には既に、その話は両家の親たち同士の間の話になってしまっていた。

 真理子があっという間に最小限の荷物を持って、あの赤いアウディで僕らの家を去っていった
からだ。真理子は実家に電話連絡をし、事情を伝えた上で、おそらくマウイ島の静かなリゾート
あたりにしばらく滞在することになったらしい。真理子は電話での連絡は実家ととっているらしかった
が、義母にさえその居場所を告げなかったという。
 僕にできることは、真理子が僕たちの空虚な関係を認めた上で、真理子自身の幸せのためにどう
することが一番いいのかを考えられるよう、時間を確保し、その間だけでも出来る限り真理子を周り
の小言や意見から守ることだった。そのために、日本に居る僕が一人真理子の実家からの攻撃に
さらされても、やむをえないことなのだ。
 僕と同じように、真理子も自分自身を見つめる時間が必要だった。

 二年間の別居の後、僕と真理子は別れた。もちろん、僕は慰謝料を申し出た。理沙と会ったこと
も、もう僕の心は理沙の元にあることは本当のことだから。しかし、真理子は拒絶した。
「あなたからもらうものは、もう何もない。」と。


 僕は、今一人で暮らしている。
 その暮らしは真理子が居た時とあまり変わり映えの無いもののような気がする。

 理沙の携帯番号のメモは、引き出しの奥深くにしまったままだ。
 
 あの羽田での別れから十年後に、僕と理沙がどうなっているのかは神様でもわからないだろう。
 まだ長い時が果てしないトンネルのように僕らの前に続いている。

 それでも、僕には一つだけわかることがある。

 僕も、理沙も、そしておそらくは真理子も、きっと自分がどんな人間なのかということを、あの頃と
比べものにならないほど、しっかりそれぞれの手につかんで歩き続けていることだろう。

 それは、きっと生きていく道のりにおいて、最も苦しく、最も美しいことなのだと僕は信じている。
                                                       (了)

<注>第4章<1>、第5章<4>において、山下達郎氏のアルバム「MELODIES」より
「メリー・ゴー・ラウンド」の歌詞の一部を引用させていただきました。


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十通の手紙 14 [ゴールデンブログアワードノベル]


第5章 <4>

 レストランを出て、羽田に向かった。

 途中、理沙がまた、何故自分が第二外国語にドイツ語を選んだのか、というクイズを出した。
 僕は「外国の童話が好きだったからだって言ってたじゃないか?」と答える。理沙はあら、そんなこと覚えていたの?と笑いながら言った。

「あなたが医大生だったからよ。本当に鈍いのね、あなたは。」
 言葉に詰まった僕を尻目に、理沙は遠くを見るような目をして余裕の笑顔だ。この笑顔が理沙の十年だったのだろうか。

 理沙が、CDを換えていいか、と聞く。
「これをもう一度、あなたと一緒に聞きたかったの。覚えてないかもね、あなたのことだから。」
 理沙がCDを入れ替え曲番号を指定すると、赤ん坊をあやすときのガラガラのような、チャイムの
ようなかすかな音が聞こえてきた。やがて、重低音のリズムが走り出す。

 達郎の「メリー・ゴー・ラウンド」だ。

「ねえ、この曲、私と二人でいつ聴いたか覚えている?」
「そりゃ、あのドライブの時だろ?そのくらい覚えてるよ。」
 理沙は意外そうな顔をした。
「あら、覚えていたんだ・・・。私ね、この曲が車でかかった時、本当はあなたとどうなってもいいと
思っていたの。今思うと笑っちゃうけれど、あの時は本気だったのよ。だって、この曲の歌詞、
ちゃんと聴いたことはある?誘っているとしか思えない歌詞よ。」

 僕はいまだに曲の歌詞には無頓着である。でも、今聴いてみると、確かにそういう歌詞だ。

 理沙は見えてきた羽田のターミナルを見やりながらつぶやいた。

「でもね、この曲は結局ハッピーエンドではないの。私は、今日のためにこの間CDを買って、
ちゃんと歌詞を聴きなおすまで、それに気が付かなかった・・・。だからね、私もあなたとおあいこ。
ただ、十年間甘い思い出に浸って夢見る夢子ちゃんを演じていただけなのかもね・・・。」
 僕は答える言葉を持たなかった。

 理沙は第二ターミナルに近い駐車場に入れてほしいと言った。
 僕は羽田には学会に行く時に来るくらいで、新しくできた第二ターミナルはほとんどわからず、
車を降りると理沙のあとを追いかけるように歩いた。それを見た理沙は微笑んで、そっと僕の手を
つかんだ。暖かくて小さな理沙の手が僕をターミナルの高みへと導いていく。

 最上階には、外に出られるデッキがあった。僕たちに向かって、飛行機が行儀よく並んでいる。
これから旅立とうとする機体もあれば、旅を終えて一休みしようと戻ってくる機体もある。

 そのデッキは平日だからか、少し風が強いせいか、誰一人いなかった。
「きれいね」
 理沙が金網越しにイルミネーションを眺めてつぶやいた。
 僕の手は、やさしい理沙の手に握られたままだ。

 理沙は、ゆっくりと僕の手を自分の方へ引きよせた。
「今日はありがとう。約束を守ってくれて。」
 理沙の言葉を聞いても、僕は複雑な気持ちだった。
 理沙は僕を十年間愛し続けた。僕は、十年たっても理沙を嫌いになどならなかった。
 それは紛れもない真実だった。

「私は、あなたを十年間愛することができて幸せでした。」
 僕と理沙は、お互いの目を見詰め合った。
 今は、何も考える必要などなかった。

 ふたり、どちらからともなく、抱きしめあった。

 十年間の年月はまるで刹那のように。

 ふたりの互いを抱きしめる姿はまるで自分自身を抱きしめるように。

 僕らは二人とも、暖かな涙を流していた。まるで、それが生きていることの証であるかのように。

 その時、飛行機が離陸する轟音が何もかもをかき消していった。(続)


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十通の手紙 13 [ゴールデンブログアワードノベル]


第5章 <3>

 僕が東京の総合病院に転任になった時、やはり真理子は世田谷の家に二世帯住宅を建てる話を
持ち出してきた。しかし、僕はそれだけは譲らず、杉並にマンションを買ってしまった。病院から呼び
出しがあった時にも、車で十分で駆けつけられる。僕は僕なりに、医者という仕事に生きがいも感じ
ていたし、東京に戻って来ただけでも真理子の願いの半分はかなえられていたはずだ。

 真理子はしばらく口もきかなかった。一週間冷戦状態が続いた後、世田谷の家に好きなだけ行か
せてもらうわよ、と言い捨てて、あとはもとの日常に戻った。
 世田谷や海外にお義母さんや友人と茨城から行くか、杉並から行くかの違いであり、真理子に
とって何一つマイナスなことはないはずだった。なにしろ、都外に住んでいる、ということがどんなに
自分を傷つけているか、と夜中にわめいていた妻である。

 そういうわけで、真理子は赤いアウディを駆り、世田谷経由で日本橋へ、銀座へ、成田へ、と
足しげく通っていた。
 僕は真理子のいない休みの日や夜、一人になると豆を挽いてドリップし、コーヒーの香りの中で
音楽を聴き、一人でも何も変わらない僕と真理子の関係に何故か感謝しているような気にさえなる
のだった。

 理沙から電話のあった次の休みの日、僕は真理子が世田谷の実家に行くという赤いアウディの
後姿を見届けて、お昼少し前に理沙の携帯に電話をかけた。こんなに胸が高鳴ることはいつ以来
だろうか。まるで僕は青くさい少年のようだった。

「じゃあ、中野の駅前まで迎えに来てくれる?」
 理沙は僕の車の車種と色を聞き、自分はグリーンのシャツを着ていく、と言った。

 中野の駅前のデパートの前で、理沙はエメラルドグリーンのシャツを着て手を上げた。昔の理沙
なら、とても着ないような鮮やかな色。でも、それがとても似合っている。

「奥さん、大丈夫?」
 助手席に乗り込んだ理沙はいたずらっ子のような顔をして僕の表情を覗き込んだ。
「そういう話は今日は無しにしよう。僕は僕、君は理沙。」
「そうね、そうしましょう。」

 理沙はシートベルトをすると、ベイブリッジから羽田に行きましょう、と提案した。僕は、昔の汚名を
返上すべく、第三京浜からベイブリッジに向かうコースを取った。

 平日の第三京浜は空いていた。
 車の中には最近出たばかりの北欧の歌姫のアルバムがかかっていた。

「流行りものが好きなのは相変わらずね。」CDのラックを見ながら理沙が笑う。
「そうかな?単にレコード屋の一番目立つところにおいてあるのを買ってくるんだ。」
 また、理沙があなたらしい、と笑う。そうだろうか。

「あの日、私が何で病院から急に帰ったか聞きたい?」
 理沙は意地悪な顔をして、なぞなぞを出すように僕に聞いた。
「そりゃ・・・しばらくぶりに思いがけないところで会って、びっくりしたからだろう?」
 それ以外に何があるんだ?

 理沙はしばらく黙り込んで、そう、本当のことを言おうか、はぐらかそうか考えているのだ。理沙に
関しては十年たった今でもそのくらいのことはわかる。・・・わかる?何故なんだ?何故理沙のこと
ならわかるんだ?

 僕が自問自答している間に、理沙は重い口を開いた。
「胸を見せるのが嫌だったから。」

 思いがけない答えに僕は風にハンドルを取られそうになる。
 理沙の胸。
 患者の胸。
 理沙の、一度も見たことのないからだ。

 僕は、平静を保ちながらも、ショックを受けていた。

 やはり、理沙はまだ僕を愛している。

 そのことが、わかってしまったから。
 そして、僕は、まだ理沙のことをもっと知りたいと思っている自分に気が付いてしまったから。

 そうだった。僕は、もっと理沙のことを知りたかった。
 それだけはこんな僕でも、こんなからっぽな僕でも、かけがえの無い美しい願いのはずだった。

 それがどこで狂ってしまったのだろう。ボタンの掛け違いはどこから起こったのだろう。
 この空虚な僕の心を満たすものは、理沙でしかありえなかったのに。

 十年たって、それが初めて僕の中で形を成した。
 もう、遅いと誰かが頭の中で言う。でも、これだけは譲れない。
 僕の至らなさ、足りない部分を補えるのは理沙だけだったのだ。

「ねえ、レインボーブリッジよ!きれいね。」
 理沙は僕の左手をそっと包んだ。ごく自然に。
 ああ、理沙のぬくもりだ。

 もう、時間は夕刻になりかけていた。理沙は、夜になったら羽田に行きたいという。
 僕らは理沙が行ったことがあるという、京浜島にある隠れ家のようなレストランで食事をすることに
なった。

「よく知っているね、こんなところ。」
「ふふふ。私にだって、こういうところに連れてきてくれる人もいたのよ。」
 僕は、いろんなことを妄想する。勝手なものだ。
 理沙は、きれいに齢を重ね、堂々とした魅力的な女性になっていた。

「安心して・・・っていうのもおかしいけれど、その人とは一度しかディナーは食べてないし、今はもう
他人だから。」

 理沙は夕闇が降りてきた窓辺を見ながら頬杖をついた。

「私ねえ、結局あなた以上に好きな人にはめぐり合えなかったみたい。結婚したら幸せにしてくれ
そうな人とか、私を大切にしてくれた人、いつも何か新しいことにチャレンジしている人、いろんな人
と出会ったけれど、私のバカ正直なこの心が天秤にかけるの。『その人への思いと昔の彼への思い
はどちらが重いの』って。でも、あなたが結婚したって聞いて、もうその秤をしまいこもうとしたのよ。
でも、できることと、できないことがこの世の中にはあるのね。」

 僕は、何と答えていいのかわからなかった。でも、彼女が真実を語ってくれたことに対し、そして
彼女の十年に対し、今僕ができることは正直な気持ちを伝えることしかない。

「確かに、僕は結婚した。でも、僕も、君を好きなんだ。忘れることもできないし、まして嫌いになんか
なれないんだよ。」

 理沙は微笑んだ。きれいな笑顔。僕にとって、この世の誰よりも美しい笑顔。

 やがて夜の帳が下りて、理沙の笑顔が映るガラスの向こうには羽田の発着便のライトが美しく
輝き始めた。(続)


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十通の手紙 12 [ゴールデンブログアワードノベル]


第5章 <1>

 看護士が名前を呼んで、次の患者が入ってきた。今日は特に混んでいる。いったい、午前の診察
はいつまでかかるのだろう。
 この患者は新患だった。紹介状が付いている。診療所の血液検査の結果を見るとおそらく甲状腺
機能亢進症だ。それも、かなり高い数値になっている。もう一度血液検査と尿検査をして、エコーも
必要だろう。

 僕は新しいカルテに貼り付けられた紹介状と紹介医のコメントを見ながら、患者のほうに向き
直った。

「多分、診療所のほうでもお話は聞かれていると思いますが・・・。」

 患者の顔を初めて見たとき、僕は何が起こったのか、ここがどこなのかさえも一瞬わからなく
なった。
 そこに座っていたのはまぎれもなく、理沙だった。
 カルテの名前を見直す。髪はかなり短くなったけれど、スーツ姿ではあったけれど、まぎれもなく
理沙だった。

「先生?」看護士が不審そうに僕を見た。
 いや、失礼、と言って僕は何事もなかったように診察を続けようとした。少なくとも、そうしようと
努力したが、動悸が止まらない。

 その時、理沙が大きな声で言った。
「すいません。やはり、今日は帰ります。」

 看護士が唖然とし、理由を聞く。理沙はしばらくうろたえて、その後、意を決したように荷物を
まとめ、何も言わず診察室を出て行ってしまった。

 僕は席を立ち、理沙を追いかけた。でも、多くの患者が溢れかえった病院の中で、理沙の背中は
すぐに見えなくなった。
 診察室に戻ると、間近で見ていた待機席の患者の奇異なまなざしと、驚いて口をあけている
看護士が僕を待っていた。

 僕は、この春、東京のこの病院に転任して来ていた。理沙がこの近くに引っ越してきていたとは
知るよしも無い。理沙も驚いただろうけれど、僕も同じくらい驚いていたし、混乱していた。

 午前中の診察が終わった後、理沙の受診していた診療所の先生に電話をした。できれば、理沙
に連絡を入れてもらい、もう一度この病院の別の医師に受診してもらうか、病院を変えるか、いずれ
にしてもすぐに受診して治療を受けてもらいたいと伝えてほしいとお願いをした。
 本来なら僕が直接電話をすべきなのだが、僕がかけても理沙が話を聞いてくれる自信がなかった
のだ。

 電話を切って、ため息をついた。午後の診療が二十分後に迫っていた。

 <2>

 理沙から電話がかかってきたのは、翌週のことだった。
 この病院は、午後は予約だけなので早ければ四時頃には医局に戻ることができる。医局に戻り、
コーヒーを飲んでいる時、「先生、外線入ってます」とインターンが取り次いでくれた。

「理沙です。今、電話していて大丈夫ですか?」

 ああ、と僕は少しあわてた。理沙の声は昔と変わらないけれど、かなり落ち着いた話し方になって
いて不思議な感じがした。

「先日は大変失礼しました。あれで、変な評判が立ってしまっては申し訳ないと思って・・・心配で
電話しました。本当にごめんなさいね。」
「いや、僕のほうこそ、慌ててしまって・・・。患者の顔よりカルテを先に見るなんて、医者失格
かな。」
 電話の向こうで理沙が笑う声がする。

「今、別の病院で見てもらってます。薬で治療中ですけれど、少し仕事を休んだほうがいいみたい
です。二か月の診断書をもらいました。思わぬ休暇になりました。」
「そうだね、仕事、がんばりすぎたんだろう?ストレスも原因の一つ、という説もあるからね。薬が
効いてくれば普通の生活に戻れるよ。」

 しばらく、沈黙があった。その沈黙を破ったのは理沙だった。
「それでは、本当に失礼しました。どうか、お元気で・・・。」

 理沙が電話を切ろうとしたとき、僕は思い切って言った。
「一度、会えないか?訳はそのときに話す。」

 しばらくの無言の後、理沙は言った。
「ご都合の良い日の朝、電話をください。」
 理沙は携帯の電話番号を告げると、静かに電話を切った。

 気が付くと僕が手に持っていた紙コップは、知らないうちに力が入ったのか、コーヒーが床に溢れていた。
 手にかかった入れたばかりのコーヒーの熱さが気にならない程、僕の心は遠い遠い過去の思いへと駆けていった。(続)


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十通の手紙 11 [ゴールデンブログアワードノベル]


第4章 <2>

 年賀状という形で彼に毎年手紙を書いてきた。いつか、彼よりもずっと好きな人が現れて、そんな
手紙を書くこともいつか終わるかもしれないと思っていた。彼を思い続けたい、という気持ちの反面、
早く彼を諦めなければ、という冷静な私もいた。

 あの頃の私は佐伯さんにキスをされたことで、彼に申し訳がなく、もうまっすぐに彼の目を見られ
ないような気がした。その頃感じ始めていた「自分が彼にとって大切な存在ではないのかもしれな
い」という不安は更に大きく膨らみ、その気持ちが彼から私を自ら遠ざけていった。
 もし、佐伯さんとのことを知った彼がそれでもいい、と抱きしめてくれていたら、きっといろんなこと
が変わったのだと思う。でも、そうはならなかった。
 私は「もうだめかもしれない」とその時感じた。哀しいことだけれど、私の予感はよく当たるのだ。

 ただ、私の心の中には、彼以上のものはその時に何もなかった。だから、「賭け」をしてみたのだ。
十年間の賭けを。
 本当に私が彼のことを真剣に愛しているのだとしたら、十年たってもきっと同じ気持ちでいられる
だろう、と。もし、そのときに自分の気持ちが変わっていなかったら、そして、彼が私と再会できる
状況だったら・・・もう一度、一緒に歩き始めることができるかもしれない・・・と。
 もし彼が少しでも私を思ってくれていたのだとしたら、その奇跡も起こりえるかもしれない、と。

 十年目、そして十通目の手紙を出し終わったときにその賭けは終わった。
 その賭けに負けたのは誰?勝ったのは誰?

 わかったのは、恋の賭けに勝ち負けなどないということだった。

 十年たっても私は私だった。彼のことは好き。一番好き。でも、もう元のようには戻れないことも
一番よくわかっている。第一、彼は既婚者だ。
 これからはその思いから背を向けず、正面から抱きしめて生きていくしかない。たとえ私が誰かを
本当に好きになって結婚したとしても、彼を好きだったことは私の心の引き出しからは消えていかな
い。私は、そんな私自身を引き受けて、歩き続けていくことを覚悟しなければならない。

 一度覚悟してしまうと、なんとなくすっきりした気持ちになった。
 十年間、確かに苦しかった。でも、その日々の中で、私という人間はこんな人間なのか、と寂しくも
あり、哀しくもあり、あきれてしまう気持ちもあり・・・とにかく、自分という人間との付き合い方にも
慣れてきたような感触もあるのだ。
 十年前、彼と付き合っていた頃の私は、人を好きになるという素敵なことを知ることはできた
けれど、自分自身のことよりも彼を知ることに一途になってしまった。この苦しかった十年は本当の
意味で一人ぼっちだったからこそ、私は私自身と向き合うしかなかった。でも、そのことは今の私に
とっては決してマイナスにはなっていない・・・と信じている。信じたい。

 小さな台所から、ケトルが私を呼ぶ音がした。最近凝り始めたコーヒーを入れるために、ペーパー
ドリップの準備を始めた。

<3>

 春が過ぎ、会社の定期健診をしたことなどすっかり忘れた頃、社員の健康管理をしている保健師
さんから連絡が来た。しばらくぶりに社屋の端っこにある健康管理室のドアをたたくと、中から「どう
ぞ」という声がした。
 要は、コレステロール値が正常値より低いのと、問診で微熱が続く、というコメントを見て再検査を
してほしいとのことだった。
「ただの風邪が長引いているのだと思うんですけれど・・・。」と言い訳したものの、「もうそろそろ体を
いたわったほうがいいお年になってきましたよ!それに、残業時間、多すぎですよ。働きすぎ!」と
年配の保健師さんにぴしゃりと言われてしまった。
 
 会社の指定の病院でもいいのだが、どうしても診察時間が会わなかったので、自宅の近くの行き
つけの診療所で土曜日に血液検査等をしてもらった。会社指定病院なら、勤務中に行ってもかまわ
ないのだが、その時、私は大きな企画を任せられていて、その時間さえ惜しかったのだ。

 翌週の火曜日、疲れきった足を引きずりながらコンビニのお弁当をぶら下げ、書類の入った重い
カバンを肩にかけた情けない私が部屋にたどり着くと、電話の留守番ボタンが点滅していた。再生
してみると、検査をした診療所からで、検査結果の件で、できるだけ早く来てほしい、ということ
だった。嫌な電話だ。何か良くない結果が出たのだろう。明日は午前中会議がある。夕方早引き
させてもらうことは出来るだろうか、と重い足を引きずって、お風呂のお湯を入れ始めた。

 翌日、終了時間ぎりぎりに診療所に飛び込むと、やはり悪い話だった。甲状腺のホルモンが異常
値を示していて、内分泌科のある病院にすぐ行ってほしいということだった。そういえば、最近疲れ
がとれなかった。食べてもかなり体重が減った。微熱も出る。
 紹介状をもらって、重い気分で診療所を出た。

 翌朝、紹介された大きな病院に行って見ると、受付開始前に行ったにも関わらず、ものすごい混み
方だった。紹介状があっても、順番は待たなければならない。
 受付を済ませてから、病院の外に出て会社に電話を入れた。本当は午後には出勤するつもりだっ
たけれど、混んでいて多分無理だと思います、と上司に伝え、一日休ませてもらうことになった。
上司は、感情のないロボットのような声で「はいはい、おだいじに」とだけ言って、ガシャンと電話を
切った。

 待っても待っても名前は呼ばれなかった。病院に来るとかえって調子が悪くなるっていうけれど、
そう言われるのもよくわかる。
 そして、病院に来ると、どうしても両親のことを思い出してしまう。この病院ではなかったけれど、
何度も病室に通ったことをふと思い出し、春も盛りなのに寒々しい気持ちになった。

 持ってきた仕事の資料も大概読み終え、半ば眠りかけていた時、やっと名前が呼ばれ、診察室の
前に入るように言われた。その大病院は、内科だけでも病気ごとにいくつかに部屋に分かれて
いて、更にその部屋の中も、複数の診察ブースで仕切られていた。
 私は看護士に言われた番号の診察室のカーテン前の待機席でまたしばらく待たされた。

 私の名前が呼ばれた。白いカーテンを開けたその時、私は凍りついた。(続)


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十通の手紙 10 [ゴールデンブログアワードノベル]


第4章 <1>

 私は7階の窓から街の明かりを見ていた。

 一昨年、去年と続けて両親を病気で亡くし、兄といろんなことを整理し、今まで両親と住んでいた
家も処分することになった。兄一家は今仙台に転勤しており、しばらくそちらにいる予定だという。
私が一人で住むには手持ち無沙汰な今までの自宅は古くもなっていたし、この機会に売り払って、
二人でわずかな遺産を分け合った。
 その遺産と自分の貯金を少し取り崩し、今の中古のマンションを買った。今まで住んでいた所より
も、職場に近く便利になった。
 
 私は一人ぼっちになった。
 
 新宿に勤めているので、新宿に近くて、学生時代の友人の多くがアパートを借りていた中野の
マンションを探した。少しは土地勘のあるところの方がいいと思ったからだ。
 中古とはいっても築3年のきれいな物件がちょうど見つかった。前に住んでいたのも女性で、結婚
をするので出て行ったのだと不動産屋のおじさんが言った。
「そういう縁起のいいお部屋ですからねえ、きっとあなたも数年後にはご結婚されるかもしれません
よねえ。」
 私は愛想笑いとも苦笑いともつかない微妙な表情をしていたと思う。でも、日当たりもよく、何より
窓からの景色がよかった。このあたりにはめずらしく周りに高い建物がなく、少し離れたところには
広い公園もあった。昼は緑が、夜は新宿方面の夜景がきれいだった。駅も遠くない。

 様々な手続きに忙殺されているうちは忘れかけていた喪失感が急に心の中に押し寄せてきて、
本当に自分が一人ぼっちであることが冬の寒さと共に、しんしんと胸に押し寄せて来る。

 自分ひとりの空間、自分だけの場所。何をしても、ここにいる限りもう誰も何も言わない。カーテン
さえ閉めていれば、お風呂あがりにどんな格好をしていてもかまわない。休みの日にいつまでも
パジャマを着ていたとしても、誰も文句を言わない。
 でも、誰もお帰りとは言ってくれない。誰もおはようとは言ってくれない。風邪をひいても誰も大丈
夫かとは言ってくれない。
 それがひとり、ということなのだ。

 私は高校時代から大学に入った頃まで、付き合っている人がいた。あれは、多分、「付き合って
いる」ということだったのだ、と思う。
 ただ、少し自信がないのだ。
 確かに、私は彼をとても好きだった。ただの憧れとか、そういうことを除けば、あれが初めての恋
だったのだ。私の心は彼のことで一杯だった。もちろん、勉強もしたし、友人たちとのつきあいもそれ
なりにしていた。でも、彼と一緒にいる時が、彼のことを考える時が、一番生きている、と感じていた
のだと思う。
 ただ、彼が私のことをどう思っていたのかはわからない。勉強を教えてくれたり、二人きりで会った
り、免許を取って初めてのドライブに誘ってくれたり、多くの時間を過ごした。でも、彼は一度も私に
好きだ、と告げることはなかった。私にとって、彼が私と手をつなごうとしてくれることだけが、ささや
かな希望だった。彼が私を好きでいてくれるかもしれない、というささやかな希望。

 彼の友人達は、彼には他にも付き合っている女の子がいるらしいよと私にささやいた。
 私は信じていた。でも、何を?何を信じていたんだろうか、と今は思う。彼を?彼の言葉を?彼は
私に「愛している」とか、「好きだ」とは一度も言わなかったし、そのしぐさも見せなかった。
 でも、私は彼のまなざしが好きだった。彼が私を見るまなざし、一緒にいる時間、彼の好きなもの
たち、彼の着ているもの、彼の声。そう、私を呼ぶ彼の声が好きだった。

 でも、今はどんな声だったのかはっきりとは思い出せないのだ。あんなに好きだったのに。あんな
に聞きたい声だったのに。長い時間が様々なものを与える代りに、大切なものを奪ってもいく。

 私が今、彼について一番鮮やかに覚えているのは、彼の声でも顔でもまなざしでもない。
 一度きりのドライブの時に車でかかっていた曲、山下達郎の「メリー・ゴー・ラウンド」だ。
 
 彼は、歌詞はあんまりよく聞かないんだよ、リズムが好きなんだ、と確かあの時言った。でも、私
の耳にはまだ残っている。メリー・ゴー・ラウンド,ラウンド&ラウンド・・・。
 その曲は、真夜中の誰もいない遊園地に恋人たちが忍び込んで・・・という歌詞が付けられて
いた。あの日の私の心は、まさにその歌詞のとおりにわくわくして、どきどきして、一つフェンスを
乗り越えるような・・・そして、誰よりも好きな人と二人きりでいることの喜びで心がはちきれそう
だった。

 結局、その日は道に迷い、食事をして、山下公園で海を見て帰った。別れ際、私は彼に自宅から
少し離れた場所で車を止めてもらった。家族に気づかれたくなかったからだ。車を降りる刹那、私は
彼を見つめた。彼は疲れた顔をして、「じゃあまたね」と手を上げた。
 まだ私は高校生だったし、今こうして考えれば思い出としては悪くはない。でも、彼がそのまま車
を走らせて去っていった時、私は急に不安になった。
 うまくは説明できないけれど、彼にとって私がどんな存在なのかを私自身が知らないことに気づい
てしまったのだ。
 
 その時から、彼を思うことは苦しくて、苦しくて、哀しい思いに変わった。

 彼が私を初めてのドライブに誘ったのは何故なのか、夕闇の海を見ながら私と手をつないで何を
考えていたのか。
 そして、彼が私のことをどう思っていたのか、私にはわからなかった。
 
 私達は、ある出来事を境に会うこともなくなった。
 どちらがその時絆を切ろうとしたのかは、今となってはわからない。
 いずれにしても、もう考えても仕方のないことだ。

 その後私は、嫌いではないけれど好きとも言い切れない何人かの男の人と恋人のような関係に
なった。不思議なことにその男性達は何故か皆、山下達郎のアルバムをほとんど全部持っていた。
 こういうことってあるのかな、とその事実を知る度に私は思った。まるで、罰のようではないか。
 私はあの曲を彼らとは聴こうとしなかった。彼らの車で、あるいは部屋で音楽をかける時は、あの
曲が入っているアルバムをさりげなく隠した。

 まだ、あの人の隣に座っていたときの心のざわめきが消えていなかったからだ。
 そのざわめきを消さないで、と私の心が叫んでいた。

 ラウンド&ラウンド・・・

 やがて私は仕事にのめり込み、付き合ってきた何人かの男性達とは静かな別れを繰り返し、
気がつくと自分ひとりでいる時間を楽しめる人間になっていた。

 女性の友人は、数は少ないけれど居た。一緒にお茶をしたり、買い物をしたり、ディナーをすること
もあった。でも、ひとりでいるお気に入りのカフェ、旅先のお気に入りのホテルでひとり食べる朝食、
自分の部屋・・・いつのまにか、ひとりの時間のほうが好きな私になっていた。
 そんな時にぼおっとしながら、あの人のことをふと思い出すのだ。今、どうしているのだろうか、と。

 ラウンド&ラウンド・・・

 私はまだ、あの人のことが好きなのだと思った。(続)


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十通の手紙 9 [ゴールデンブログアワードノベル]


第3章 <3>

 理沙の家は、このまま西に向かえば一時間もしないで着くはずだ。正月の夜中で道は空いて
いた。父が酒に弱くなったおかげで、ほとんど飲んでいなかったのはラッキーだった。

 車を運転しながら、いろいろなことを思い出していた。
 初めて理沙を愛しいと思った渋谷の山手線のホーム。新宿で待ち合わせた高校生時代の理沙。
僕のために理沙がもらってきてくれたお守りを胸のポケットに入れて受験した冬。合格の知らせの
電話にうれし泣きしていた理沙の声。数学の問題を考えているときの理沙の真剣な顔。いつも待ち
合わせた新宿の喫茶店で僕を待つ間に本を読んでいた理沙の姿・・・。
 そして、その中でも生々しく思い出したのは、初めて車の免許を取って、理沙を駅まで迎えに行っ
たことだった。ああ、あのときはナビもなくて、地図を見ながらすごく苦労してたどり着いたんだっけ。
でも、あの理沙の驚いた顔はうれしかった。僕は理沙を思いっきり喜ばせたかったんだ。

 初めて横浜に行った時はとんでもないところに迷い込んで、大変なことになったっけ。せっかく理沙
にカッコいいところを見せようと思っていたのに、本当にまいった。大汗かいてなんとか横浜にたどり
着いたのに、予定していた店も見つからなくて・・・。

 なんであの時、理沙にキスさえしなかったんだろう。確かに理沙が嫌がることをするつもりは
無かっただろうけれど、多分、理沙は拒まなかったと思う。公園でも、帰りの車の中でも、いくらでも
チャンスはあったはずなのに。

 キスじゃなくてもいい、「君が好きだ」ということが伝えられれば、それでよかったのだ。

 車は空いた道をひたすら西へ走った。もうすぐ理沙の住む家の近くになるはずだ。理沙の家は、
近くまではあの最初で最後のドライブで行ったものの、その場所そのものは見ていない。理沙の
家の人にわからないよう、駅で待ち合わせ、帰りも少し離れたところで別れたのだ。封筒の差し
出し人のところに書かれた住所とナビを見比べながら探す。やがて、その地番らしき場所に出た。
しかし―。

 僕は、何度もナビと封筒の住所を見比べ、言葉を無くした。

 その場所は更地にされ、何一つ残されていなかった。
 まるで、理沙という女性自体がこの世の中に、そもそも居なかったかのように・・・。

 この時間では近所の家に理沙の一家がどこに引っ越したのか聞くこともできない。
 僕は、上着を着ることも忘れて車の外に立ち尽くした。

 僕の隣で妻の真っ赤なアウディのアイドリングだけが真夜中の住宅地に響いていた。

<4>

 翌日、真理子から「もう一晩こっちに泊まって、明日ママと買い物にいくから車だけ持ってきて」と
僕の実家に電話が来た。要は、僕は電車で帰れ、ということなのだ。こんなことを母に聞かれたら
大変なことになる。
 僕は4日には宿直の当番があるから明日一日はゆっくりしたかった。あるいは、一人で家にいる
ほうがゆっくりとできるかもしれない。それに、昨晩のことがあって、気持ちがかなり高ぶっていた。
そんなときに真理子と二人でいるのはできれば避けたかった。

 両親には今日真理子と一緒に自宅に帰ると話して、実家を出た。
 いつまでも見送る両親がなんだか小さく見えて、心が痛んだ。そろそろ、東京の病院に換わりたい
と思っていた。それは真理子も強く望んでいたことだ。僕は、年をとった両親が心配だったからだ
が、妻はとにかく東京以外、しかも大都市以外のところに住んでいるのが耐えられないらしい。
 もし東京に戻るようなことになれば、妻は自分の実家を2世帯住宅にして住もうと、僕以外の
世田谷のメンバーで話していることも知っている。

 真理子は確かに悪い女ではない。しつこくないし、さっぱりしていて、僕には向いている女だと
思う。でも、昨日理沙からの手紙を読み、いろいろなことを考えた昨晩の出来事があってから、
僕の心には「これで良かったのか?」という思いがもやのように広がり、消えなかった。

 そう、僕は真理子を愛してはいないのだろう。
 そもそも愛ってなんだ?僕は、真理子とうまくやっていると思う。人が見たり聞いたりしたらひどい
と思うような真理子の言動も、別に僕にとっては侮辱でもなんでもない。僕は真理子に自由を与え、
真理子は僕に条件付きの自由を与えている。その条件とは、真理子のライフスタイルをできる限り
邪魔せず、必要に応じてフォローする、というものだった。
 僕らの結婚は、愛では結ばれていない。お互いの自由を確保するための契約とでも言えようか。
結婚しているという社会的なステイタスのカードを手に入れるために、暗黙の契約を交わしていると
も言える。

 ある年齢になると親や周りがわあわあ言って結婚を勧める。そのままそれを押し切れば、「あの人
はなんで結婚しないんだろう」とささやかれ始め、最後は「きっと何かあるに違いない」とまで言われ
てしまう。それが今の日本の社会だ。僕と真理子は絶妙のタイミングでそれらのうるさい外野を
シャットアウトできる絶対の手段をとることができたのだ。

 そういう意味で、真理子と僕は同類なのかもしれない。多分、真理子も僕を愛してはいない。僕と
いうまさに限られた契約におけるパートナーを得て、自分の世界で一人自由に泳いでいるのだ。

 車を世田谷の真利子の実家に乗り付けると、真理子と義母はそのままアウディで日本橋の
デパートに行くという。僕は日本橋まで彼女達を送り、そこから一人になった。

 茨城の自宅に帰るため地下鉄やJRを乗り継ぎながら、ふと考えて第三の男である友人に携帯で
電話をかけた。もし、都合がつけば呼び出して、久々に旧交を温めるふりをして理沙のことを聞き出
そうと思ったのだ。今の僕は、なんとかして理沙に一度会わなければ、という妄想のような強い思い
にとらわれていた。
 つながった電話の向こうでは、家族のにぎやかな声がいくつも聞こえてきた。できちゃった結婚
だった彼らの家にはどちらかの両親でも来ているのだろう、大人たちに囲まれ、はしゃぐ子供の声が
聞こえる。そこには、僕達の年齢ならばごく自然な、一般的な正月の光景が想像された。
 もう、その時点で僕は彼が出て来るのは無理だと諦めた。単に、正月の挨拶のような風を装い、
最後にさりげなく理沙の住所を知っているか聞いてみた。
 彼は大きな声で理沙の友人だった妻に尋ねていたが、返ってきた返事は「年賀状が戻ってきた」
という言葉だった。転送の手続きさえとっていないのか・・・。

 もう、理沙につながる線は消えてしまった。

 佐伯に連絡をしてみることも頭をかすめたが、もし、それで理沙の居場所がわかったら、それは
それで気に入らなかった。多分、そうなったら僕はもう理沙には連絡をしないだろう。

 僕は、常磐線の発車を待ちながら、こんな気持ちになった自分を不思議に思った。物事や人に
淡白でこだわりの少ない自分。結婚でさえ、周りが納得して自分のライフスタイルへの影響が最小
限であれば人の勧めるままに決めてしまった自分。こだわったのは、職業くらいのものだ。それだっ
て、人命を救いたいという気持ちよりも、父の会社を継ぎたくなかったという排他的な理由のほうが
強かったかもしれない。
 
 ただ一つ、理沙に関してのみ、僕は別人のように「生きて」いた。
 それに気が付くのに十年遅かったのだ。(続)


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十通の手紙 8 [ゴールデンブログアワードノベル]


第3章 <1>

 久しぶりに実家の自分の部屋に一人座っていると、なんだか変な気分になる。
 多くの場合、結婚して2年もすれば、もう自分の家のほうが落ち着くという声を聞く。しかし、僕の
場合はなんだか時間が巻き戻されて、学生時代の自分に戻っていくように、この部屋にすっとなじ
んでいることを感じる。
 それは、あるいは真理子から解放された一人の人間としての、ありのままの僕になっているという
ことかもしれない。ああ、でも別に真理子にとやかく言える自分ではない。そういう言い方は変だ。

 でも、僕は今、一人の人間としていつになく素直な気持ちになっていた。

 理沙には、真理子と結婚することをさりげなくトリプルデートの第三の男から伝えてもらっていた。
というのは、実はあのトリプルデートで出会った二人(関東北部の大学にいっていたヤツとペアに
なった女の子)はなんと三年前にゴールインしていて、その奥さんから理沙に連絡をしてもらった
のだ。
 僕が直接連絡をとれるような立場でないことは自分でよくわかっていたし、きっと結婚した事が
わかれば、察しのいい理沙は二度と僕に連絡を取ってくるようなことはしないだろうと思っていた。

 しかし、封書は元旦に去年も今年も来た。
 今まで一人で住んでいた茨城の勤務地近くのマンションでなく、実家のほうに送り直すところが理
沙らしい配慮だ。

 あの最後に会った日の直後に送られてきた手紙以降、毎年理沙は実家に、そして僕が勤務医に
なってからは誰かから聞いた勤務地の住所に毎年正月に一度だけ、短い封書を送ってきた。
 手紙はいつも、僕の健康と活躍を祈っている、というような短い内容だった。

 また会いたいとか、自分がどうしているかとか、そういうことは一切書いていなかった。
 時に、僕は何故このような手紙を理沙が送ってくるのかを考えてみることもあった。理沙がこの年
賀状に形を変えた連絡をなぜ僕にとりつづけるのか。

 その時まだ僕は、理沙と最後に会った直後にもらったあの手紙の内容さえ、きちんと理解してなか
ったのだ。

 その不思議な年始の手紙も今年で十通目だ。結婚した男に、いったい何を言おうとしているのか、
去年と同じように手紙を空けるのに躊躇した。去年とまた同じように、なんということはない挨拶
だけなのだろうか。

 下の階から母の声がかかった。
 とりあえず手紙を自分の部屋の机に開封せず置いたまま、リビングに降りて父と酒を飲みつつ、
母の手料理をしばらくぶりに食べ、近頃のお互いの状況について話をした。

 もうすぐ十時になろうかという頃、父はもう眠る、と言って先に床に行った。
「最近はお父さん、早いのよ、寝ちゃうの。もう年なのよね。」
 母がおせち料理の皿を片付けはじめた。ここで早く切り上げないと真理子への愚痴になることは
目に見えている。
 悪いけど先に寝るよ、と一言母に残し、二階の自分の部屋に戻った。机の上に、理沙からの白い
封筒がぽつんと残されている。いつもより、気のせいか少し厚みがあるように感じた。

<2>

  いかがお過ごしですか?
  立派なお医者さんとして活躍されていることと思います。
  結婚されて2年ですね。もう新しい生活にもなじまれた頃ですね。
  
  今、幸せですか?

  それは愚かな質問かもしれません。
  奥様はきっとあなたにお似合いの、とても素敵な女性なのでしょう。
  これは嫌味ではなく、そうあってほしい、という私の願いでもあります。

  私は相変わらずです。

  十年。

  あの時には、こんなに長い時間が本当に流れるとは考えてもいませんでした。
  今思えば当たり前の話ですが、当時そう感じたのは私が若かったからなのでしょう。
  なんとなく、夢のような、長い長い、でも短い時間でもありました。

  そして、あなたともう一度、会うことができればどんなに良かっただろう、という気持ちと、
  会わなくて良かったのかもしれない、という両方の気持ちがあります。

  十年間、結局私はあなたのことを忘れられませんでした。
  そして、ずっと、あなたを好きでした。
  十年の年月は人の姿かたちを、そして心のありかたも変えるには十分な時間だった
  はずなのに・・・。

  でも、十年間あなたを好きだった自分を、私はなんだか愛おしく思っています。
  私らしいでしょう?

  今、三十歳になったあなたは、いったいどんな人になっているのでしょうか。
  どんなお医者さんになっているのでしょうか。
  そして、どんなご主人になっているのでしょうか。

  私はあなたと過ごした短い時間を今でも後悔していません。
  いつまでも、きっと小さな宝石のように胸の奥底に抱きしめて大切にして生きていくのだと
  思っています。

  これが最後の手紙です。  
  どうか、あなたのこれからの日々がすばらしいものとなりますように。
                                            理沙


 僕は、理沙の手紙を読み終わると、なんだか自分の馬鹿さ加減に今更ながらにあきれ、
しばらくぼうっとしていた。

 理沙との十年前の約束。
 理沙は僕を十年思い続けていた。そして、僕は理沙を嫌いになってなんかいない。
 それは、僕が結婚していようと、していまいと、関係のないことだ。
 僕は、理沙を嫌いになったことなど、一度もない。
 僕は、十年間、逃げていただけなのだ。自分の力の無さから、決断力の無さから、そして、
理沙という一人の女性と本当の意味で向き合うということから。
 
 その時、僕は初めて理沙の十年前の手紙の本当の意味を知った。
 理沙は十年間という長い間、僕が成長し、変わるに十分な時間を静かに待っていてくれたのだ。

 僕は、上着と車のキーを握って、実家を飛び出した。(続)


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十通の手紙 7 [ゴールデンブログアワードノベル]


第2章 <10>

「お前が放っておいたのが悪いんだよ。」
 佐伯は僕が呼び出した喫茶店で席に座るやいなや言う。
「自分なら、当分放っておいても女は離れていきやしない、とでも思っていたんだろ。」
 畳み掛けるような、挑むような佐伯の言葉に僕は黙っていた。
「理沙に何をしたんだ。」僕は単刀直入に言った。
「別に。普通の男と女が付き合い始めるように、誘って、飲ませて、キスしただけだよ。今はまだそこ
まで。彼女は堅いからな。まあ、お前にできないくらい俺が大切にしてやるよ。」

 僕は、今まで余り人に怒ったりすることはない人間だった。でも、そのときばかりは人目も
はばからず、大声を出した。
「理沙は未成年だぞ。飲ませて、だましたのか!どうせ誘ったのだって何かだますようなことを言っ
たんだろう。理沙は、理沙はお前みたいな薄汚い手を使うようなヤツと付き合うような人間じゃない。
彼女にもうこれ以上、手を出すな!」
 佐伯は僕の大声にびくともせず、余裕のある顔つきで言った。
「すべて彼女が選ぶ事だろう。お前は目の前に居たお姫様をもう自分のものにしたつもりでいたろう
が、彼女のことをどうやって幸せにしてやろうかなんて考えたことも無いだろう。自分のことばっかり
だからな。彼女に何か約束をしてやったのか?約束なんてお前はできないな。約束って言うのは、
自分を犠牲にしてでも、他人を守るってことだ。お前にとって、一番大切なのは理沙ちゃんじゃない
だろう。お前自身なんだよ!」
 それだけ言うと、佐伯は自分の飲み物の分の小銭を机にたたきつけ、喫茶店を出て行った。

 何で理沙が佐伯と二人で会ったのか?何故佐伯の誘いに出かけていったのか?
 その疑問はまだ残されたままだった。

 しかし、佐伯と理沙がどんな成り行きでそうなってしまったにせよ、彼らが今の僕と理沙以上の
関係を持ったことについて当時の僕は許せなかった。許せない、というよりも、もう理沙がまるで
佐伯のものになってしまったような気がした、というほうが近いかもしれない。
 今考えれば、なんてばかなことを考えていたんだか、と思う。でも、それは時が経ち、少しは大人
になったからそう考えられるようになったというだけで、その時は白か、黒か、そんな気持ちだった。

 僕は、理沙に対する気持ちが揺らいでいる自分がいることに気づいていた。
 今までの一片の雲さえない澄んだ青空のような理沙への気持ちに、佐伯という二度と消えない影
が落ちていた。 
 でも、理沙と会わなければいけない。

 本当なら夏休みに入り、理沙とどこかへドライブにでも行ったら楽しいはずの、素敵な季節だった。
でも、僕らはいつも会っていた新宿の喫茶店で静かに向かい合って座っていた。

「手紙読んだよ。佐伯とも会った。でも、君から直接聞きたいんだ。」
 理沙はずっと下を向いていた。
「私が悪かったの。佐伯さんがあなたのことで相談があるって言ってきて、あなたに相談せず二人
だけで会った私がいけなかった。」
 やはり、佐伯は理沙をだまして呼び出したのだ。
 いつかの晩、夜遅く理沙からかかってきた電話を僕は思い出していた。
「あいつの言ったことは本当なのか。」
 そう僕が言ったときの、理沙の悲しそうな目を今でも覚えている。今なら、その目を見ただけで
何があったのか、何をいいたいのか、わかる僕かもしれない。でも、その時の僕ははっきりと理沙の
口から聞かずにはいられなかった。
「もし、そうだとしたら、あなたは・・・?」
 理沙の声は涙で途絶えた。

 僕は、しばらく理沙の涙が止まらない瞳を見つめ、やがて一人黙って店を出た。
 それが、学生時代の理沙を見た最後になった。

<11>

 その後、僕は人が変わったように人付き合いが良くなり、何人もの女の子と付き合い、そのうちの
何人かとは深い仲にもなった。
 けれど、どうしても心から大切にしたいと思う女の子は現れず、まるで季節が変わるように、相手も
変わっていた。別れることで騒ぐような女の子はあえて避けていたのかもしれない。特にトラブルは
なかった。

 翌年の元旦、めずらしく家にいて、ポストに年賀状を取りに行った。うちは父が小さいながら会社を
経営していることもあり、年賀状の数は半端ではない。
 分厚い年賀状の束の中で、すこし違う大きさのものがあることに気づいた。それは封書だった。
 見慣れた文字。
 理沙からの手紙だった。

 その手紙だけを持って二階の自分の部屋に上がり、少し急いた気持ちになりながら封を開けた。

  明けましておめでとうございます。
  新しい年が、何かを変えてくれることを私は祈っています。
  私は今、一人ぼっちです。
  私の心の中には、あなただけが住んでいます。
  迷惑だということもわかった上でお願いがあります。

  もし、これから十年間、あなたを思い続けることができたら、
  そして、その時、あなたが私のことを嫌いでなかったら、
  十年後、もう一度会ってもらえませんか?
  私の、一生のお願いです。
                                理沙

 しばらく、僕は自分の部屋のどこでもない宙を見つめた。何か歯車が狂っている。それはわかる。
でももう、どうにもそれを正しい位置に戻すことはできない。そんな気持ちだった。

 白い便箋に書かれた言葉は、一言ひとことが理沙らしい、と思った。
 十年後。僕は十年の先を見やろうとした。何一つ見えない。何故理沙は十年後と決めたのか。僕にはわからなかった。
 実はもう、理沙と佐伯が付き合っていないことは友人から聞いて知っていた。佐伯は本気だったの
だが、理沙が毅然と拒絶したのだ。

 既に僕に理沙を責める気持ちなど無かった。
 そもそも、理沙を責める気持ちなど無かったのかもしれない。理沙が僕を裏切るようなことをする
人間ではないということを一番わかっていたのは誰でもない、この僕だったのだから。

 本当は、すぐにでも理沙に会って、抱きしめたかった。
 でも、あの純粋な理沙を抱きしめるには、もう僕の手は不似合いなような気がした。
 僕は、特に好きでもない何人かの女の子たちと既に気楽な付き合いを繰り返していたのだ。

 そう、もう歯車は二度と元にはもどらない。時間ももどらない。僕にはその歯車を正しい噛み合わ
せに戻すような力はない。僕はそういう人間だった。自分の力で何かが変えられるなんて大それた
ことは考えない。水は高いところから低いところへ流れ、二度とはもどらない。
 二度と、もどらない。

 理沙とはそれっきり会っていない。連絡もとっていない。
 その後、毎年理沙から元旦に来る少し風変わりな年賀状を除いては。

 その年賀状とも言えない、まるで普通の手紙のような封書たちには、いつも僕の健康や活躍を
祈っている、ということだけがさらりと書かれていて、理沙の近況などは一切書いていなかった。
僕は引け目があったことと、正直なところ何を書いていいかわからず、一度も返事を書かなかった。

 そして、長い長い年月が僕らの心と体の距離を隔絶していった。(続)


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十通の手紙 6 [ゴールデンブログアワードノベル]


第2章 <7>

 僕の大学の前期の試験が迫り、結構やばい科目もあって、真面目なやつのノートを借りまくり、
さすがに焦って勉強を始めた頃だった。
 めずらしく、夜十時を過ぎた遅い時間に理沙から電話がかかってきた。

 理沙はきちんと育てられた娘なのか、夜遅い時間に電話をかけてくるようなことはしなかった。
まだ携帯電話などない時代の話だ。電話がかかってくれば、家族に迷惑もかかるし、早い家はもう
眠る支度をしているだろう、ということをちゃんと考えるようにしつけられている女の子だった。
 だからその時、なぜそんな時間なのに理沙がかけてきたのか、僕はよくよく考えるべきだった。
しかし僕はちょうど翌日締め切りの、試験の前に提出しておかなければならないレポートを一夜
漬けで書いているところだった。
「どうした?めずらしいな、こんな時間に。今、明日までのレポートを書いているんだ。」
 理沙は、少しためらった後、
「ごめんなさい、こんなに遅く。そうね、試験が近かったのよね。急がなくていいの。試験が終わって
からで・・・。ごめんね、また連絡するね。」と早口で言い、電話を切った。
 寝不足が続いてぼんやりしていた僕は、その時に少しでも彼女が何を言いたかったのか考えよう
としただろうか?いや、NOだ。
 僕は、明日の夜にでも電話しなおそうとその時は思っていたが、翌日そのことを思い出した時には
もう十一時を回っていた。

 そして、試験が無事終わって理沙に電話しようとした頃、高校時代の友人から想像もできない話を
聞くことになった。

<8>

 そいつは、高校時代のトリプルデートの「第三の男」だった。彼とは、新宿の紀伊国屋で専門書
コーナーにいるところでばったり会った。
 彼は関東北部に移設された国立大学の理系に通っていたはずだ。試験が終わり、夏休みでこっ
ちに帰ってきたらしい。久々だったので、近くでお茶することにした。

 高校時代のいろんなヤツのその後を、少し遠い地にいるはずの彼のほうがよく知っていた。要は、
僕よりマメな人間は山のようにいるということだ。

「そういえばさ、佐伯は最近いい女と付き合っているらしいぜ。」
 女、という言い方がいかにも嫌な感じだった。あまり興味はなかったが、話を合わせて聞いている
と、ヤツは次のタバコに火をつけながら言った。
「ほら、高二の時さあ、渋谷でお子様デートしたじゃない?あの時の一番地味だったけど、きれい
だった子だってさ。なんでも同じ大学に入ったらしくって・・・。」

 僕は、その後ヤツがいろいろ語った具体的な二人の付き合いの様子を聞いたはずだけれど、実は
よく覚えていない。非現実的だったし、そりゃ佐伯のでまかせだろうという気持ちと、その一方で
理沙ともう何週間も話していないことに気づいた。
 最後の電話は・・・そうだ、あの理沙らしくない電話だった。

 とにかく、理沙と直接話をしたかった。しなければ、と思った。そんな、理沙が佐伯と付き合って
いるなんて、そんなことがあるはずがないと思った。理沙に限って、そんな。

 旧友とは早々に別れ、公衆電話で理沙の家に連絡をした。そのまま家に帰ったら、電話をするに
は遅くなってしまうからだ。
 理沙のお母さんが電話に出た。
「すみません、理沙はまだ帰っていないんですよ。お友達と出かける約束があるそうで、今日は遅く
なるといっていました。」
 もう、九時に近い。理沙の門限は大学に入ってから十時に伸びてはいたけれど、こんな時間まで
いったい誰と何をしているというのだろう?確かに、佐伯じゃないかもしれない。最近入ったクラブの
メンバーと夕食を食べているのかもしれない。
 それにしても、嫌な感じがした。

 その翌日、理沙から一通の手紙が来た。

<9>
 
  私は、もうあなたに会うことができないかもしれません。
  心から、今すぐにでも会いたいけれど、もうあなたの顔をまっすぐ見ることができないかも
  しれません。
  私は、自分の至らなさと、思慮の無さから、大きな過ちを犯してしまいました。
  それがどんなことなのか、とてもここに書くことはできません。
  私自身、とてもショックな出来事でした。
  でも、きっと、すべては私があなたを信じきれなかったことから始まっているのです。
  あなたとのことを何よりも大切に考えていれば、こんなことにはならなかったと思うからです。

  今までは、あなたと会えない時間、話せない時間、切なくてもとても幸せでした。
  でも、最近はあなたと会えない時間は辛く、何か少しの疑惑を感じるだけでもあなたを疑い、
  自分など本当はあなたにとってたいしたことの無い存在なのではないか、と苦しい思いで
  一杯でした。
  そして私は、あなたを裏切ることをしてしまいました。
  たとえ、それが私の本意でなかったとしても、二度と消すことはできない事実です。

  考えてみれば、あなたにはあなたにふさわしい世界の人が周りにたくさんいるんですよね。
  それにさえ気づかず、自分ひとりが幸せな気持ちに浸っていた私はばかでした。

  あなたの本当の気持ちに気が付かずに、本当にごめんなさい。

  さようなら。今までたくさんの幸せをありがとうございました。           理沙

 理沙の手紙を読み終わると、僕は立ち上がった。
 まず、僕が会わなければならないのは理沙ではなく、佐伯だった。(続)


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