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十通の手紙 12 [ゴールデンブログアワードノベル]


第5章 <1>

 看護士が名前を呼んで、次の患者が入ってきた。今日は特に混んでいる。いったい、午前の診察
はいつまでかかるのだろう。
 この患者は新患だった。紹介状が付いている。診療所の血液検査の結果を見るとおそらく甲状腺
機能亢進症だ。それも、かなり高い数値になっている。もう一度血液検査と尿検査をして、エコーも
必要だろう。

 僕は新しいカルテに貼り付けられた紹介状と紹介医のコメントを見ながら、患者のほうに向き
直った。

「多分、診療所のほうでもお話は聞かれていると思いますが・・・。」

 患者の顔を初めて見たとき、僕は何が起こったのか、ここがどこなのかさえも一瞬わからなく
なった。
 そこに座っていたのはまぎれもなく、理沙だった。
 カルテの名前を見直す。髪はかなり短くなったけれど、スーツ姿ではあったけれど、まぎれもなく
理沙だった。

「先生?」看護士が不審そうに僕を見た。
 いや、失礼、と言って僕は何事もなかったように診察を続けようとした。少なくとも、そうしようと
努力したが、動悸が止まらない。

 その時、理沙が大きな声で言った。
「すいません。やはり、今日は帰ります。」

 看護士が唖然とし、理由を聞く。理沙はしばらくうろたえて、その後、意を決したように荷物を
まとめ、何も言わず診察室を出て行ってしまった。

 僕は席を立ち、理沙を追いかけた。でも、多くの患者が溢れかえった病院の中で、理沙の背中は
すぐに見えなくなった。
 診察室に戻ると、間近で見ていた待機席の患者の奇異なまなざしと、驚いて口をあけている
看護士が僕を待っていた。

 僕は、この春、東京のこの病院に転任して来ていた。理沙がこの近くに引っ越してきていたとは
知るよしも無い。理沙も驚いただろうけれど、僕も同じくらい驚いていたし、混乱していた。

 午前中の診察が終わった後、理沙の受診していた診療所の先生に電話をした。できれば、理沙
に連絡を入れてもらい、もう一度この病院の別の医師に受診してもらうか、病院を変えるか、いずれ
にしてもすぐに受診して治療を受けてもらいたいと伝えてほしいとお願いをした。
 本来なら僕が直接電話をすべきなのだが、僕がかけても理沙が話を聞いてくれる自信がなかった
のだ。

 電話を切って、ため息をついた。午後の診療が二十分後に迫っていた。

 <2>

 理沙から電話がかかってきたのは、翌週のことだった。
 この病院は、午後は予約だけなので早ければ四時頃には医局に戻ることができる。医局に戻り、
コーヒーを飲んでいる時、「先生、外線入ってます」とインターンが取り次いでくれた。

「理沙です。今、電話していて大丈夫ですか?」

 ああ、と僕は少しあわてた。理沙の声は昔と変わらないけれど、かなり落ち着いた話し方になって
いて不思議な感じがした。

「先日は大変失礼しました。あれで、変な評判が立ってしまっては申し訳ないと思って・・・心配で
電話しました。本当にごめんなさいね。」
「いや、僕のほうこそ、慌ててしまって・・・。患者の顔よりカルテを先に見るなんて、医者失格
かな。」
 電話の向こうで理沙が笑う声がする。

「今、別の病院で見てもらってます。薬で治療中ですけれど、少し仕事を休んだほうがいいみたい
です。二か月の診断書をもらいました。思わぬ休暇になりました。」
「そうだね、仕事、がんばりすぎたんだろう?ストレスも原因の一つ、という説もあるからね。薬が
効いてくれば普通の生活に戻れるよ。」

 しばらく、沈黙があった。その沈黙を破ったのは理沙だった。
「それでは、本当に失礼しました。どうか、お元気で・・・。」

 理沙が電話を切ろうとしたとき、僕は思い切って言った。
「一度、会えないか?訳はそのときに話す。」

 しばらくの無言の後、理沙は言った。
「ご都合の良い日の朝、電話をください。」
 理沙は携帯の電話番号を告げると、静かに電話を切った。

 気が付くと僕が手に持っていた紙コップは、知らないうちに力が入ったのか、コーヒーが床に溢れていた。
 手にかかった入れたばかりのコーヒーの熱さが気にならない程、僕の心は遠い遠い過去の思いへと駆けていった。(続)


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