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十通の手紙 13 [ゴールデンブログアワードノベル]


第5章 <3>

 僕が東京の総合病院に転任になった時、やはり真理子は世田谷の家に二世帯住宅を建てる話を
持ち出してきた。しかし、僕はそれだけは譲らず、杉並にマンションを買ってしまった。病院から呼び
出しがあった時にも、車で十分で駆けつけられる。僕は僕なりに、医者という仕事に生きがいも感じ
ていたし、東京に戻って来ただけでも真理子の願いの半分はかなえられていたはずだ。

 真理子はしばらく口もきかなかった。一週間冷戦状態が続いた後、世田谷の家に好きなだけ行か
せてもらうわよ、と言い捨てて、あとはもとの日常に戻った。
 世田谷や海外にお義母さんや友人と茨城から行くか、杉並から行くかの違いであり、真理子に
とって何一つマイナスなことはないはずだった。なにしろ、都外に住んでいる、ということがどんなに
自分を傷つけているか、と夜中にわめいていた妻である。

 そういうわけで、真理子は赤いアウディを駆り、世田谷経由で日本橋へ、銀座へ、成田へ、と
足しげく通っていた。
 僕は真理子のいない休みの日や夜、一人になると豆を挽いてドリップし、コーヒーの香りの中で
音楽を聴き、一人でも何も変わらない僕と真理子の関係に何故か感謝しているような気にさえなる
のだった。

 理沙から電話のあった次の休みの日、僕は真理子が世田谷の実家に行くという赤いアウディの
後姿を見届けて、お昼少し前に理沙の携帯に電話をかけた。こんなに胸が高鳴ることはいつ以来
だろうか。まるで僕は青くさい少年のようだった。

「じゃあ、中野の駅前まで迎えに来てくれる?」
 理沙は僕の車の車種と色を聞き、自分はグリーンのシャツを着ていく、と言った。

 中野の駅前のデパートの前で、理沙はエメラルドグリーンのシャツを着て手を上げた。昔の理沙
なら、とても着ないような鮮やかな色。でも、それがとても似合っている。

「奥さん、大丈夫?」
 助手席に乗り込んだ理沙はいたずらっ子のような顔をして僕の表情を覗き込んだ。
「そういう話は今日は無しにしよう。僕は僕、君は理沙。」
「そうね、そうしましょう。」

 理沙はシートベルトをすると、ベイブリッジから羽田に行きましょう、と提案した。僕は、昔の汚名を
返上すべく、第三京浜からベイブリッジに向かうコースを取った。

 平日の第三京浜は空いていた。
 車の中には最近出たばかりの北欧の歌姫のアルバムがかかっていた。

「流行りものが好きなのは相変わらずね。」CDのラックを見ながら理沙が笑う。
「そうかな?単にレコード屋の一番目立つところにおいてあるのを買ってくるんだ。」
 また、理沙があなたらしい、と笑う。そうだろうか。

「あの日、私が何で病院から急に帰ったか聞きたい?」
 理沙は意地悪な顔をして、なぞなぞを出すように僕に聞いた。
「そりゃ・・・しばらくぶりに思いがけないところで会って、びっくりしたからだろう?」
 それ以外に何があるんだ?

 理沙はしばらく黙り込んで、そう、本当のことを言おうか、はぐらかそうか考えているのだ。理沙に
関しては十年たった今でもそのくらいのことはわかる。・・・わかる?何故なんだ?何故理沙のこと
ならわかるんだ?

 僕が自問自答している間に、理沙は重い口を開いた。
「胸を見せるのが嫌だったから。」

 思いがけない答えに僕は風にハンドルを取られそうになる。
 理沙の胸。
 患者の胸。
 理沙の、一度も見たことのないからだ。

 僕は、平静を保ちながらも、ショックを受けていた。

 やはり、理沙はまだ僕を愛している。

 そのことが、わかってしまったから。
 そして、僕は、まだ理沙のことをもっと知りたいと思っている自分に気が付いてしまったから。

 そうだった。僕は、もっと理沙のことを知りたかった。
 それだけはこんな僕でも、こんなからっぽな僕でも、かけがえの無い美しい願いのはずだった。

 それがどこで狂ってしまったのだろう。ボタンの掛け違いはどこから起こったのだろう。
 この空虚な僕の心を満たすものは、理沙でしかありえなかったのに。

 十年たって、それが初めて僕の中で形を成した。
 もう、遅いと誰かが頭の中で言う。でも、これだけは譲れない。
 僕の至らなさ、足りない部分を補えるのは理沙だけだったのだ。

「ねえ、レインボーブリッジよ!きれいね。」
 理沙は僕の左手をそっと包んだ。ごく自然に。
 ああ、理沙のぬくもりだ。

 もう、時間は夕刻になりかけていた。理沙は、夜になったら羽田に行きたいという。
 僕らは理沙が行ったことがあるという、京浜島にある隠れ家のようなレストランで食事をすることに
なった。

「よく知っているね、こんなところ。」
「ふふふ。私にだって、こういうところに連れてきてくれる人もいたのよ。」
 僕は、いろんなことを妄想する。勝手なものだ。
 理沙は、きれいに齢を重ね、堂々とした魅力的な女性になっていた。

「安心して・・・っていうのもおかしいけれど、その人とは一度しかディナーは食べてないし、今はもう
他人だから。」

 理沙は夕闇が降りてきた窓辺を見ながら頬杖をついた。

「私ねえ、結局あなた以上に好きな人にはめぐり合えなかったみたい。結婚したら幸せにしてくれ
そうな人とか、私を大切にしてくれた人、いつも何か新しいことにチャレンジしている人、いろんな人
と出会ったけれど、私のバカ正直なこの心が天秤にかけるの。『その人への思いと昔の彼への思い
はどちらが重いの』って。でも、あなたが結婚したって聞いて、もうその秤をしまいこもうとしたのよ。
でも、できることと、できないことがこの世の中にはあるのね。」

 僕は、何と答えていいのかわからなかった。でも、彼女が真実を語ってくれたことに対し、そして
彼女の十年に対し、今僕ができることは正直な気持ちを伝えることしかない。

「確かに、僕は結婚した。でも、僕も、君を好きなんだ。忘れることもできないし、まして嫌いになんか
なれないんだよ。」

 理沙は微笑んだ。きれいな笑顔。僕にとって、この世の誰よりも美しい笑顔。

 やがて夜の帳が下りて、理沙の笑顔が映るガラスの向こうには羽田の発着便のライトが美しく
輝き始めた。(続)


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武田のおじさん

おじさんは単純だから、単純にかんがえてしまう。だから、赤川次郎の小説なんかは簡単に読めるのだろう。
しかし、文学小説などの、重たいものは性に合わないのであまり読まなかった。文学小説は、えてして人間の深層心理を暴き、汚れた部分ばかりを人間の本質のように声を大きくする。そんな気がして嫌ってきた。
だから、思考が単純に出来ているらしい。
その点、さまざまな本に触れてきたニライカナイ店主さんは、人間の深いところまで考えて、キャラクターの人格を深みのあるものにしているようです。
好き嫌いせずに、もっと本を読むべきかも知れませんね。
反省しきりの、おじさんでした。
今後の展開、楽しみにしています。(^-^)
by 武田のおじさん (2006-01-29 00:53) 

ニライカナイ店主

武田さんへ>
ナイスと励ましのお言葉、ありがとうございます。
確かに、最後は観念的になってきますね。この部分を自然にかければ
本当にいいのでしょうが、まだまだ私には修行がたりません。
私も赤川次郎さん、よく読みましたよ。別に文学にレベルはないのだと思います。おそらく、その時、その人に必要なものが、その人にとって最もすばらいい
文学なのだと思います。私は多くの本に助けられ、育てられてきたこと、
さらに、これからもそうであろうことを思いつつ、このブログをはじめました。
自分でもたまには小さなトライをしてみよう、とこうして書いてもみました。

さて、もうすこしで通常営業に復帰です。ふう~。
by ニライカナイ店主 (2006-01-29 13:16) 

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